謎。 -本日の南日本新聞より-

つばめ

2016年01月23日 16:00

古書リゼットの店主・安井さんの個人フェイスブックに、南日本新聞に掲載された神保町の古書店・書肆ひぐらしさんのエッセイが紹介されていた。これが非常に興味深い。

昨年、加治屋町の維新ふるさと館で行われた、古書祭りでの歴史愛好家のお客さまのとのやり取りをベースに書かれたものだ。
タイトルは「私の西郷隆盛紀行」で、そのテーマは、「川口雪篷(せっぽう)=大塩平八郎 説」である。川口雪篷は西郷にとって沖永良部島時代に知り合い意気投合した書の先生であり、西郷が鹿児島に帰ったのちも西郷の家に同居していた陽明学者。他方、大塩平八郎は、天保時代、飢饉で苦しむ大坂の民衆のために武装蜂起して立ち上がった人物で、やはり陽明学者だ。
しかし…このふたりが実は同一人物だなんて、、聞いたこともなければ読んだこともなかったのだが、ひぐらしの有馬さんは、これを古書祭りのときにお客さんと話をしており「なるほど、言われえてみれば確かにそうかもしれませんね…」と話していたのだった。で、それを小耳にはさんだ私もとても気になり、早速自分で調べたのだが、その範囲では何もその情報の真偽の欠片を得られなかったのである。
それがここにきて再び紙面を飾っている。それによると、そういう説はもともとあったらしいが…。確かに新聞に書いてある「(川口の出身地である)種子島には大塩平八郎の史跡がある」というのは非常に気になるところではある。…果たして真相はどうなのか。

西郷は大塩平八郎を尊敬しており、その代表著作『洗心洞箚記(せんしんどうさつき)』を所持していた。民衆のために動いた西郷らしいといえる。
他方、川口は西郷の死後、西郷の家を守り抜いており、そこを訪れた頭山満(西郷を非常に尊敬していた人物)に「これが西郷の読んでいた本だ」と『洗心洞箚記』を貸出した。それを執筆した人物が実は川口本人だったというのだろうか? 
二人の生没年は、大塩が1793~1837年、川口が1819~1890年。うーん、、まず年代が合わない。ただ、大塩は大坂で乱を起こして失敗、最期自殺に追い込まれるが実はその死体は本人か識別不可能だったらしい。ということから、実は生き延びていたという説もあるのだ。ということは、その後、鹿児島(沖永良部島?あるいは当初は種子島?)にこっそり逃げ延び、そこで川口雪篷と名乗って別人となって生き続けたのか…? 確かに自分が書いた本を西郷が持っていたら「話のわかる人物だ」と信頼し、ともに生きたという可能性もなくはない。しかし一般的な二人の経歴を比べるに(もちろん当たった資料はまだ少ないが)江戸と鹿児島(沖永良部島・種子島)にゆかりのある川口と、大坂の大塩。場所もだいぶ異なるがそれは川口となった大塩が鹿児島(種子島・沖永良部島)で生き延びたからだと仮定するとして、問題は生没年だ。没年は大塩の長生きということで整合が仮につくとしても、生年についてはどう解釈するのか? 川口の生まれた年はもともと架空ということになってしまうのではないか??(種子島“出身”ということもだ) そして大塩が川口になったタイミングが皆目検討がつかないし(前述のとおりそれまでの川口の存在はどうなるのかという謎があるため)…。   いやはや、謎は深まるばかりなのだが…。

ひぐらしの有馬さんとその見解についてじっくり話したいところだ。